ビデオ・CD:Riverdance - a journey(2)
Live for Peace(London ColiseumでのVE Dayのイベント)。チャールズ皇太子と面会するプリンシパル2人。
会場について検討する制作スタッフ。
場所の候補は3つ。Royal Albert HallとWembley StadiumとApollo。West Endの劇場では十分な大きさの場所がなく、また大きすぎてもチケットが売れないかも知れないし、民族問題を考えたらその懸念はなおさら大きくなる・・・ということで結局はApollo。
ロンドン公演ではメンバーも一部変更されました。
「Lift the Wing」のAine Ui Cheallaighさんが抜けAnunaのメンバーのデュエットになり、スパニッシュギターのRafael RiqueniさんがDes Mooreさんに、フィドルのMaire BreathnachさんがEileen Iversさんに代わりました。
そして6月6日の公演初日。結果は大喝采。5回ものスタンディングオベイションがあったそうです。
売れたことの影響。
Michael FlatleyとJean Butlerの間の緊張がしきりに噂されました。どうもJeanさんがメディアにもてはやされたのがMichael様の気に入らなかったみたいですね。
Sunday Timesほかによると、はじめMichael様とJeanさまは同じ扱いだったのが、そのうち「Michael Flatley with Jean Butler」という形になり、いっぽうMaria Pages姉さんは格上げされ、Jeanさまと同格に。95年夏の時点で彼のギャラは週50.000ポンド。ジーンさまはその半分以下。
お金がらみの話は尽きず、Anunaも自分たちのグループをアルバムで使うなら20,000ポンド、という条件を提示し、結果「Riverdance」のアルバムではAnunaではなくSeoltaというグループがコーラスを担当しました。
とは言いつつも95年7月にダブリンで再演。6週間の興業は完売。演目的には、「American Wake」が加わりました。さらにロンドンでの再演が決定。
ここで制作サイドは抜本的な変更を決定しました。
とくに2幕には大幅な変更が加わり、ほぼビデオの「The New Show」(NYC版)の形になりました。リストアップすると・・・
- David Hayesが音楽監督兼舞台助監督になり、Tapチームの3人とゴスペルのJames Bignonのアンサンブルがアメリカに帰った。
- John McColgan発案の「Trading Taps」にはTarik WinstonとNick Holmesが参加し、Colin Dunneとそのステップを競うことになった。
- Bill Whlanの「Shivna」が加わった。
- アメリカに贈られたアフリカの王女に捧げられた「Shelter Me」が作曲された。(ごめんなさい詳細わかりません)
- Moscow Fork Ballet Companyの「The Russian Dervish」と、マウスミュージック(リルティング)を取り入れた「Oscail an Doras」が加わった。
マイケルさまはこれも気に入らなかったようで、ロンドン公演を前にして契約交渉でゴネ通し、要求はエスカレートする一方。FAXで送られた「24箇条の要求」には・・・
- 「自分の許可なしに舞台内容を変えないように」
- 「ポスターでは、『スター・振付』と目立つように表示される場合のみ名前を出すように」
- 「プログラムでは2ページ欲しい(プリンシパルとMaria Pagesまでは各1ページ割り当てられています)。契約・広告・メディアに名前が出るときには、プリンシパルではなくスターと表現すること」(なんてにしきのチックな・・・)
- 「自分はユニークなパフォーマーであるので・・・何を着るか、いつ踊るか、誰と踊るかといったクリエイティブコントロールを認めるように」
- 「カーテンコールで同僚パフォーマーがお辞儀をする際は、自分一人が前に出る」(そんなにJeanさまがキラいなんか!)
・・・といった項目が並んでいたとか。要求が実現することより、クビになることを望んでる感じさえします。
9月29日、胸あきの服で朝のテレビ番組に出るMichaelさん。問題は金ではなく、クリエイティブコントロールだと力説する。自分の代わりなんていないよ・・・とかなんとか。
10月3日(開演の日!)の夕方の番組ではネクタイ姿になってます。
この後、クビになったマイケルさまはElton Johnさんのマネージメント、John Reid氏と組んで「Lord of the Dance」を作ることになります。このReidさんともトラブルがあって、最近ようやく決着がついたとIrish Dance Magazineには書いてありましたが・・・天才の自我の強さはなかなか始末に負えないようで。
結局、開演の日付になってColin Dunneさんに主役交代することが決定。さらにJeanさまが開演直前になってふくらはぎの筋肉を痛め、Eileen Martinさんが代役となりました。(Sam Smithさんの本ではAreleen Ni Bhaoillさんとなってますが、ビデオに映ってるのはEileenさんですし、オフィシャルのパンフレットでのEileenさんの紹介文にもそう書いてあります。なんでだろ?)
楽屋風景。ブレンダンさんやアイリーンさんがちょこっと映ったり。白の衣装のアイリーンさん、まばたきが綺麗です。踊っているアイリーンさんがしっかり見られるのは貴重ですよー。
危機に際してダンサーもオーケストラも逆に気合いが入り、1幕を終えたところで早くもスタンディング・オベイションがかかった。
その後1995年10月3日初演-1998/2/10までに120公演をこなし(Smith本では151公演。どっち!?)、次はアメリカ・ニューヨークへ。
そしてニューヨークへむけて。バスの中からRadio Cityの看板を見て歓声を上げるメンバー。
「美女と野獣」「オペラ座の怪人」とならぶ「Riverdance」!
ここにきて床に問題。お馬さんのスリッパで踊られる「Reel around the Sun」の画は可笑しい。
ラジオシティの床は硬すぎ、ハードシューズで踊ると脚に負担がかかるのでダンサーには非常な問題でした。対策として新しい床材が用意され、リハーサルルームにはさながら野戦病院のようにベッドが並べられ、理学療法士と医者が待機することになったそうです。
そして開演。「the New Show」のビデオとは違うシーンが見られます。
ニューヨークでの演目は、ロンドンとの違いはほとんどなく、「Shelter Me」がIvan Thomasの歌う「Heal Their Hearts」に変わったくらいだそうです。
そして、大成功めでたしめでたし、と。
時期 | 出来事 |
---|---|
1993.9 | Doherty、Eurovisionの制作を承諾 |
1993.12 | Bill Whelanの「Riverdance」原案できる |
1994.4.30 | Eurovision Contestのアトラクションとして上演 |
1995.2.9 | ダブリン・ポイントで初演 |
1995.6.6 | ロンドン・アポロ公演 |
1995.7 | ダブリンで再演 |
1995.10.3 | ロンドン再演 マイケル・フラットリー離脱 |
1996.3.17 | ニューヨーク・ラジオシティ公演 |
- 参考
- 「Riverdance the Story」Sam Smith著
「a Journey」のビデオとほぼ同じ、「Mayo」から「Radio City」までについて詳しく書かれています。(オフィシャルサイトで買ったときには$28) - Irish Dancing Magazine
98年の6月号〜11月号で、Michael Flatleyの半生を扱った(というか、その偉大さをたたえる)連載がありました。 - The Sunday Times (96/7/28)
Lord of the Danceの評とMichaelさまの行状についての記事。Flatheads(熱狂的なFlatleyファン)の方々にはちょっとつらい論調。 - Times of London(95/5/28)
Michael対Jeanの確執について。