Airオリジナル企画:林孝之さんインタビュー

Oct. 23, 2005
posted by moriy
企画:やまもとさん、moriy
質問作成協力:やまもとさん、けいとさん、まりんさん、副田さん
写真提供:jtakaoさん
インタビュー:moriy

林孝之さんインタビュー
2005年10月15日@渋谷Coffee and Bar 3 - 4

Takaさんこと林孝之さんがオフ会に遊びに来てくださったので、いままでのこと、これからのこと、いろいろ聞いてみました。


リバーダンサーの一日

Takaさん近影・jtakaoさん提供 きょう1日はどう過ごしましたか?

「朝9時くらいに起きて普通に朝ご飯を食べました。きょうは昼公演が13時からだったので、troupeのダンサーの集合時間は11時20分。それからウォームアップですね。どの演目のどの場所で出るというローテーションについてはその日の朝発表されるんですよ。それを見て立ち位置を確認したり、練習したり」

練習は実際のステージの上でやるんですか?

「そういう場合もありますし、リハーサル室というところにステージと同じ大きさにテープを貼ってあるので、そこでやりますね」

きょうは昼夜公演で、troupeダンサーとしてほとんどフル出場だったんですね。

「そうですね、『Reel around the Sun』、『DT』(『ThunderStorm』はもともと『Distant Thunder』という名前だったのでDTってみんな呼んでます)、『Riverdance』。第2部で『American Wake』、『Heartland』、あと『Finale』」

なるほど。

「でもまだ出てない演目があるんですよ。『Heart's Cry』と『Shivna』」

え?

「実はぼくSingerでもオーディション受かってるんで、出る可能性はあるんですよ」
(※その後東京公演中にTakaさんはSingerデビューを果たされました。Singerとして出演する曲は他に『Cloudsong』や『Freedom』があります)

生い立ちとか

まずプロフィールなど伺おうかと。生年月日は?

「1973年12月24日です」

どういう家族構成だったんですか?

「両親と、僕です。兄弟はいないです」

生い立ちの中で、将来パフォーミング・アーツに方向付けるような環境はあったんですか?

「いや、ないですね。両親があまり舞台とかを見る人ではなかったので、当然僕も連れて行ってもらうわけでもないし・・・。ダンスなんか女子のやるものだと思ってたし、バレエもあの白タイツのイメージだったし。でも2000年にリバーダンスを観て、それで変わりましたね」

そもそもリバーダンスを知ったきっかけは? 誰かに誘われた?

「そうですね。会社の同僚が海外経験の長い人で、その人に『これはすごいから観ろ』と。正直そのときは『チケット12,000円か、高いなー』と思ったんですけど、その人があまりに強く勧めるもので」

「人として観ておけ」と。

「そう、人として観ておけって(笑)」

それが2000年の11月。私がはじめて会ったのは翌年の4月、その間にすでにタップダンスを始めていたんですよね。

「そうですね。リバーダンスを観て、自分でもやりたいと思って、思ったんですけど教えてくれるところがあるわけじゃないし・・・。とりあえずカタカタ鳴ってるからタップだろうと。高田馬場の冨田かおる先生のクラスに3ヶ月くらい通ってました」

はじめて会った当時から体が軟らかかったですよね。生まれつきなんですか?

「そうですね、もう身体の柔軟性に関しては自信があって、リバーダンスとか観てても『なんだ、あれしか脚が上がってないじゃないか』って(笑)」

で、もうその秋にはアイルランドに行っちゃうわけですけど、ずっとアイルランドに行こうと思っていた?

「とりあえずこのまま日本にいてもダメだと、うまくなれないとは思っていたんです。向こうに行けば先生がいるだろうと。きちんと教えてくれる先生さえみつけられれば何とかなるという感覚はありました」

新聞なんかでは「1年貯金して行った」という書き方になってますけれど。

「それまでITコンサルタントという仕事をしていて、すこし貯金はあったんですけど、向こうに行って生活して、なおかつプライベートレッスンを受けてとなると結構な金額になるんですよね。それに(アイルランドでダンスをしたいという)自分の気持ちが本当かどうか確かめる意味もあって、しばらく働いてました」

そのときは何年計画で考えていたんですか?

「3年ですね。リバーダンスのオーディションの規定として世界選手権で入賞するというのがあって、3年でやれるところまでやろうと。その3年で何をどうやっていくべきか考えて、3年たってダメならあきらめるつもりでした」

そしてそのリスクを取って、いよいよ仕事を辞めて勝負するわけですね。

「リスクというほどの感覚はなかったですけどね。失敗しても仕事がなくなって、貯金がなくなるだけだと思ってましたし」

修行生活

最初コークに行きますよね。そこで先生探しに苦労するわけですが・・・。

「当時コークの大学にJohn Cullinane先生(moriy注:アイリッシュダンスの歴史・文化研究の偉い人。Colin Dunneもインタビューの中で言及してます。)がいて、その先生の本を取り寄せて読んでいたんですよ。そしてアポイントを取ってJohn Cullinane先生会いに行ったんです。ダンスの先生を紹介してもらおうと思って。彼の本を読んで、アイルランドのコークとか西部の方が盛んだということがわかって、とにかくそこにいけば先生が見つかるだろうと思ってました。アイルランド第2の都市だから先生もいっぱいいるんじゃないかと思ってたし。それで、いろんな先生を紹介されたり、捜したりして電話して・・・を繰り返したんですけど、年齢を聞かれて、どのくらい踊れるのかと聞かれて、全然経験ないと答えたらあまりいい反応が得られなくて。うちでは子どもしか教えていないからとか言われて断られましたね」

そんな状態がしばらく続くわけですよね。

「それでだんだん自分がやりたいものがよくわからなくなってきて・・・リバーダンスってどんなんだっけな、と疑問が湧いて来たんです。それである時サンフランシスコにリバーダンスを観に行ったんです。5日くらい続けて通って・・・そのときのプリンシパルがちょうど(2005日本ツアープリンシパルの)Michael Patだったんですけど、それを観て、やっぱり自分がやりたいのはこれだ、これだよなと思って、それでコークに帰ってきてからストリートパフォーマンスを始めたんです。すごく狭い場所で踊ってました」
(moriy注:街角でノートパソコンを開いて、そのスピーカーから音楽を流して踊っていたそうです)

「そうしたらやっぱりめずらしいじゃないですか。東洋人がなんかやってるって。けっこう話題になって地元の新聞に取り上げられたりして、あれがひとつの転機でしたね」

2002年の9月から正式にレッスンを始めるわけですが、先生はたしかワークショップか何かで・・。

「8月に元リバーダンスのRonan McCormackのワークショップに参加したんです。自分が受けるべきなのはこれだろうなと思いました。ほかにもRoisin CahalaneとGemma Carney(注:いずれもRiverdanceのアンダースタディ/ダンスキャプテン級の人)が来ていて、それで壁を越えるというか、見えてきた感じですね。そのワークショップは子どもだけとかいうことではなくて、レベルも高くて」

それはダブリンで?

「ダブリンです」

なるほど、そのあとでRonan先生に入門を認められるわけですね。コークからダブリンへ引っ越したんですか?

「いや、そのときコークで借りていたflat(アパート)が木の床で、そこでダンスの練習をしていても怒られないような所だったんですよ。それでRonanとも相談したんですけど、その環境を離れるのはもったいないということで、ダブリンまで通うことにしたんです。1泊1日で3レッスン(プライベートとグループ)を受けていました」

最初の競技会は?

「競技会のレベルはおおまかに基礎(beginner)・初級(advanced beginner)・中級(novice)・上級(open)くらいの区分があって、Ronanは最初のふたつは飛ばしていいっていうので中級から出場しました」

どんな印象でした? 振り付けはRonanさんがつけてくれるもので出場するんですよね?

「そうです。ものすごく緊張したのを憶えてます。それまでのストリートパフォーマンスではまわりは普通の人じゃないですか。でもコンペティションでは目の前にダンスを知っている人たち、ダンサーの親とかが座ってるんですよ。別の緊張感でしたね。頭が真っ白になって・・・。まったく自分のダンスができなかったというか。次の大会では勝てました」

体格とか、人種といった面で壁を感じたことはありますか?

「まあ最終的にはダンスですから、スタイルがいいとか、足が長いとか手が長いとかの方が有利なのは間違いないんですよ。でもそんなこと言ったら何もはじまらないわけです。自分にやれることをすべてやりつくしてダメだったらあきらめようと。高くジャンプするとか、スピードを速くするとか、自分はそういうところで勝負しようと考えてました」

その後は2003年1月にOpen Level昇格、2003年6月にSpecial Olympicsのリバーダンスのイベントに参加、2004年4月には世界選手権出場と、トントン拍子という感じですか。

「なんていうか、あるレベルで止まっちゃうとダメなんですよ。競技会に出るようになって、チャンピオンになるダンサーのレベルというのが見えてくるんです。その目指すべき高いレベルというのがあって、いま自分のいるレベルがあると。そこで自分の目の前しか見えなくて、そのレベルでずるずる行き詰まっちゃうと、いつまでたっても抜け出せないんです。1回か2回で勝っていかないとだめだと思ってたんです。そうしないと3年じゃとても間に合わなくなってしまう。そういう意識はありましたね」

当時の食生活は? ササミばっかり食べてるって話してませんでしたっけ?

「『ばっかり』って言っちゃうとあれなんですけどね。本をいろいろ読んでわかったんですが、陸上の短距離のトップアスリートって、ホルモンをコントロールして、自分の最高の力を発揮できる状態を作っていくそうなんです。そのための食事というのがあって、たとえば炭水化物をたくさんとればパワーが長持ちするんですけど、一方で集中力が欠けるとか。それで、自分が競技会の数分間に力を発揮できる・・・持久力よりはジャンプとか瞬発力の面で・・・強くするために、タンパク質の多い食事とか、いろいろ勉強して体質的なところから変えていく努力をしてました」

競技会に出ていた時期、ケガに悩まされますよね。「怪我や故障をしないために良い方法があれば教えてください」というメールも来てますが。

「ケガに関してはもうウォームアップ・クールダウンなんですよね。ケガを治すんじゃなくて、できるだけケガをしないように気をつけること。もちろん、ウォームアップをちゃんとやってても、怪我しちゃう時はしちゃうんですけど、やっぱりウォームアップとクールダウンが大事ですね。あとはちょっと調子がおかしいと思ったら思い切って練習をやめるんです。やめるんですが他のことはするわけです」

たとえばどんなことを?

「僕はスポーツジムに行ってました。マシンとか、プールで泳いだりとか」

ステージを目指して

2005年4月 にリバーダンスのオーディションに合格しますね。2003年のSpecial Olympicsの時と今回と、オーディションの内容は違うんですか?

「Special Olympicsの時は、とにかく100人ダンサーを集めるという目的があって、だけど当時の各カンパニーのメンバーから臨時に100人を引っ張って来るというのは無理な話だったので、いろんなダンススクールに『チャンピオンシップレベルの18歳以上のダンサー募集』ってお触れが回ったんですよ。それで推薦されて、ワークショップ形式のオーディションがあって選ばれたんです。
ツアーのオーディションは、Eileen Martin(注:元プリンシパル、現ダンスディレクター)が見てくれました」

どんな内容なんですか?

「ダンスはなんでもそうなのかも知れませんけど、アイリッシュダンスは一目見ればどのくらいのレベルかわかっちゃうんですよ。だからその日もEileen Martinに『これこれのリズムでハードシューズを踊って』と言われて、踊って、OKでした」

その場で?

「その場でOKが出て、ウェイティングリスト(順番待ちリスト)に載ることになります。あとはカンパニーに欠員が出た時にそこから選ばれていくんです」

靴のこと

靴の話を。いまステージで履いている靴は自分でそれまで練習とかに使っていた物をそのまま使っているんですか?

「そうです。他のみんなもそうですよ。Fay'sがほとんどで・・・Pacelliもあるかな」

靴はけっこう履きつぶすものですか?

「履きつぶしますね。僕はちょっと緩くなったりするとすぐ捨てちゃんですよ」

それはダンスの感覚が狂っちゃうから?

「そうです」

いままで履きつぶしてきた数は?

「30くらいじゃないかな」

いまの気持ち

これもメールです。「あこがれのステージに今回の日本公演でダンスを披露しているのですが、こういう形で凱旋することのできた今の素直な気持ちを伺っていただきたいと思っています」ということですが・・・

「うーん、なってみたいとは思っていたけど、それが実現したのかなあ、みたいな感じ」

2000年の時は客席側にいたわけですよね。でも今回はステージに立つ側にいるという・・・ステージからお客さんって見えてます?

「DTのピカピカってしている時とかは見えてますね。でもあんまりその、『ステージ側』とか『客席側』とかは考えないですよ」

ただ単純に自分が来たかったところに来た、という・・・。

「そうですね」

これからのこと

Takaさんにとってショーに出ることは最終形ではないですよね? 大学院はこの間卒業されてますけど、このツアーが終わったらどうするんですか?

「いま個人ベースで動くこととしては、いろんな人とコラボレーションしてもいいと思ってます。タップの人とか、フラメンコの人とか。あと、この間インタビューをしてくれた坂本サトルさんという人がいて、その方のライブとかで、曲の間をタップとかアイリッシュでやるとか、そういうことにチャレンジしてもいいかなと思ってます。

あとはやっぱり日本人なので、日本に広めたいとは考えてます。自分でいいダンサーを育てて、それをもうちょっと小さな規模で、小さい会場でやって、本当に生のダンスを体験してもらいたい。リバーダンスは僕にとっては規模が大き過ぎちゃって・・・。そういうことをやっていくのかなあ。それで将来的には、日本で育ったアイリッシュダンスをアイルランドに持っていって、『どう?』みたいな」

(会場からの質問)日本にはいつ頃戻ってきたいと思ってますか?

「とりあえずツアー終わったら一回帰ってくるんですよ。その後がまだ決まっていなくて。Colin Dunne(注:大学院でTakaさんはColinの監修のもと卒業制作を行った)といっしょに何かやるという道もあるし、いろいろ選択肢はあるんです。でもColinと何かやるとなると、アイルランドを拠点にしなければならなくて、それに正直、お金がね、稼げないんですよ(笑)。ダンサーとしてはそれも面白いけれど、ちゃんとダンスで生計を立てるということを示せなかったら、たぶん日本では誰もやらないと思う。だから僕はそれを示さなきゃいけないと思ってます」

リバーダンスのこのツアーの生活を続けていれば、当然それなりに生計が立てられるだけのお金はもらえるわけですよね。このままショーに出続けるという可能性もあるわけですね。

「出続けるかも知れませんね」

それで、日本でも稼げるようであれば日本を拠点にするかもしれないし・・。

「稼ぐといっても(ただ儲かるというのではなくて)、『プロのアイリッシュダンサー』として食べていけるということが大切だと思っているんですよ。そうじゃなきゃ親は子どもに習わせたいと思わないでしょう? バレエとかだともうそういう道があるじゃないですか。トップに行けばそういう世界が待っている」

そうですね。

「だから、純粋にダンサーとして見ればいろいろ楽しいことはあるけれど、それだけじゃなくちゃんと現実も見て、生活も成り立たせていく、そのバランスを考えて行かなきゃいけないと考えてます」

ありがとうございました。じゃ、あらためて乾杯しましょうか・・・

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